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COMPANYKISHII’S COLUMN

KISHII’s COLUMN岸井コラム

ときめくEXPERIENCE

コロナが2年も続くとは思ってもいなかったけれど、
なんだか、世の中の気運として
政治家の責任だとか色々と言う人がいます。
エネルギー危機だとか、経済危機だとか、
食糧危機だとかパンデミックだとか。
そうしたことは人類の歴史的に見ればいつだってあったことで、
戦争がなくなったことはないし、
疫病と言われるものだって、どの時代もあった。
困ったことがあると、誰かのせいにしたいのだ。
どの程度の不安か、その大きさは人それぞれだから測れないけれど、
不安があってはいけないみたいな、錯覚もあると思う。
病気の不安、健康の不安、将来の不安、
国の治安、火災に遭う不安、暴漢に襲われる不安、
交通事故に遭う不安・・・。
数えたらキリがない。

どれだけ世の中が進んでも、そうしたことは無くならないし、
生きている限りは、死は運命づけられてる。
不安と共生する明日のことは分からない。
大切な1日をビクビクして過ごすか、希望を膨らませて過ごすか、
は自分で決められる。
ビクトーフランクルの「夜と霧」という本の中で、
自分自身のドイツ収容所内での生活を書いている。
自由を制限された中、明日の命も分からない収容生活の中で、
精神の自由だけは、誰にも奪うことはできない。
環境や状況に支配される中、極限に制限を受けた中でも、
自分自身の頭の中だけは、自由だと言っている。
人間って、どこまで強くなれるのだろうと
思わずにはいられない。

未来を想像して、
こんなことが出来たら面白そう、
あんな風になれたらいいだろうな、
こんなこともしたい、
あんなこともしたい、
期待に胸が膨らむ時
人はイキイキと輝くんだろうなぁと思う。
年齢とともに、そうしたトキメキがなくなってゆくのはどうしてだろう。
子供のうちは、まだ何者にもなれてなくて、
何者にもなれそうな伸び代ばかりがある。
大人になると、職業が決まり、住まいが決まり、
家族が決まり、環境に縛られて行く。
仕事に縛られ、お金に縛られ、時間にも縛られている。
そんな錯覚に埋もれてしまうせいだろうか。
それって、本当は自分で縛っているのに
自分は縛られていると思い込んでいるように思う。
ぐにゃぐにゃに不安定なものが嫌いだから、
固定したい色いろなものを固定することで、
安定と秩序が保てるからだろうと思う。
自分の性格や性能も、自分の収入や自分の住まい・家族も
固定することで安心できる。
でも、勝手に固定しても、
時の経過は一定であることを許さない「無常」だ。

バカはいつまでもバカじゃない。
有能はいつまでも有能じゃない。
子供は、好奇心というエネルギーが有り余って
未来を想像するけど、
大人は、経験が増えるに従い、経験に縛られて、
いろいろな縛りを自分でくわえて未来を予想する。
つまらない予想しかできなくなって、
言うことは、「それは無理」「それは大変」「それは難しい」。

ネガティブに決めてかかる
つまらない大人にはなりたいくない。