COMPANY

COMPANYKISHII’S COLUMN

KISHII’s COLUMN岸井コラム

焚き火

稲村ヶ崎のウチでは
家庭ゴミを、ほとんど庭で燃やしています。
ゴミの焼却です 。
ゴミ収集車で人が集めてくれていますが
あまり頼らず自分で出来ることをやろう、ということです。
でも、焚き火やゴミ焼却は、
普通の住宅地では禁止されています。
山を背にした、高台だからできることでもあります。
都心や街中では、すぐに消防車が駆けつます。
街中は便利で家が密集し、空き地がなくなりました。
昔、空き地は子供の遊び場でした。
公園のブランコは、最近立ち乗り禁止とかになって
危ない遊具は禁止され、どんどん規制され、
リアルな「遊び」が消えて、もちろん焚き火もダメ。
バーチャルゲームのような、
デジタルなひとり遊びに替わってきています。
焚き火はキャンプ場くらいしか許されていません。 

経済的には、多くの人が集まることが良くて、
効率的にものが売れ、お金も動く。
その代わりに、問題も起きるから規制が働く。
規制は、みんなの安全、安心を考えてのことだから
悪いことではないのだけれど、
人が多くなりすぎると、規制も過剰に働くようになる。
結果として「遊び」が失われ、「自由」が規制される。
「豊かさ」をお金と、製品と便利にすり替えている。
合理的でシステム化された社会は、リアルな遊びが少なくなる。
効率重視で、安全、コスパが優先される。
人がシステムの中の一部となる。

家族の中の個人、
会社の中の個人、
社会の中の個人、は
それぞれ全体の中の一部ではあるけれど、
システムと個人の関係性にどの程度の寛容性というか、
遊びがあるかということも、実は豊かさに関係していると思います。
例えば、自分一人ならオナラもするし、臭いのは仕方ないし、
音も気兼ねなくするけれど、
人前でオナラをする人は、「許せない」みたいな。
笑いのネタにするよりも、迷惑を被ったとする。
オナラ規制条例を作って、
罰金あるいは禁固刑みたいな社会が良い社会だろうか。
コミュニティは、どこまで規制すべきか、どこまで寛容であるべきかを考えます。
同じ価値観を共有できる人であれば、規制も少なく済むのでしょうけど、
国を大きなコミュニティとすれば、中国は最も大きなコミュニティで
大きなコミュニティの秩序を保とうとすると、規制は強くなる。
システムが幅を利かせれば利かせるほど、
人間的な情緒や感情といったものに蓋をするようになってゆく。
人間らしさとは、良心、道徳心、損得を超えて振る舞えるところに、
人間性の高さがある。
便利なシステムは人間らしさを消していくように思う。

人間性に期待せず、システムで頼る社会は、
単にコスパで考える。損得が優先になる。
デジタル化して便利になれば、
システム依存がおきて人は孤立化する。
カサカサに乾いた感じの社会になっていくのが良いとは思えない。
家の前でゴミを燃やし、焚き火をしながら考を巡らしています。

ありがとう、お陰様、お互い様と声かけられるような、
相手の顔が分かり、素性がわかる
リアルなコミュティの価値が高まるんだろうなぁ、と思います。